2018/09/08掲載
津幡町テニス協会創立40周年記念行事 3
吉田宗弘・和子夫妻による講演会
「テニスメッセージ2」
そして,津幡町テニス協会創立40周年のメイン行事は,TTCから吉田宗弘さん,吉田和子さんをお迎えしての記念講演会「テニスメッセージ2」です。いまを去ること10年前,創立30周年記念行事の一環として吉田夫妻にお越しいただいたときの講演が「テニスメッセージ」でした。その続編を願いしようという試み。今回は「テニスメッセージ2」としてここにお届けします。(講演の内容を編集部で再構成しました)
講演者のご紹介
--- 本日は津幡町テニス協会創立40周年記念講演会にお集まりいただき,ありがとうございます。私,司会を務めます井原と申します。よろしくお願いいたします。本日のお客様をご紹介いたします。公益財団法人吉田テニス研修センター理事長の吉田宗弘様,プロテニスプレーヤーの吉田和子様です。みなさま,よくご存じとは思いますが,お二人のプロフィールを簡単ご紹介させていただきます。吉田宗弘様は1990年に吉田テニス研修センター(TTC)を設立,以来,理事長として世界で通用するテニス選手の育成,世界的視野に立ったテニス指導者の育成など,ぶれることなくその活動を支えてこられました。その功績を認められて,2011年,TTCはスポーツ界で初めて公益財団法人に指定されました。
奥様の吉田和子様は,旧姓で沢松和子様といえば,テニスをなさらない方でもご存じの方は多いと思います。1967年16歳最年少で全日本選手権優勝,国内192連勝,そして日本人初の女子テニスプレーヤーとして1973年に全豪ベスト4,1975年にウインブルドン優勝と,数え上げたら切りのない戦績をあげてこられました。その活躍によって,本年フェドカップ功労賞を受賞されております。
吉田様ご夫妻には,創立30周年のときにも激励とアドバイスをいただいたわけですが,本日は新たな道しるべをお示しいただけるものと楽しみにしております。それでは吉田宗弘様から,よろしくお願いいたします。
テニスの心 --- 吉田宗弘氏 ---
ご紹介いただきました吉田でございます。私は山が好きで,津幡に来るときは妙高山を超えてやってくるのが楽しみにしております。津幡のみなさんとお目にかかれること,この40周年というめでたい席に30周年に続いてお呼びいただきありがとうございます。前田さんご夫婦が津幡でテニスを始めてから40年を超え,今日,こうして町長さんや体育協会長,石川テニス協会理事長にお越しいただいて式典を行う運びとなったことを心からお祝い申し上げます。
前田さんのこの夏のご活躍ぶりは,私どもの方にも伝わっておりまして,まあ,よく生きてお目にかかれてよかったと思っているところでございます(笑い)。奥様はご心配でしょうが,ご本人は至って元気で,これなら40年といわず,50年,60年までもお元気でテニスをしているだろうなと思っています。前田さんは本当にこつこつと地道に,やるべきことを積み重ねてこられた。そのことが今日の日につながっている訳でありますから,まずは敬意を表する次第です。
津幡には何回も足を運ばせていただいておりますが,そのたびに明るくにこやかに迎えてくださる。TTCからも今年は10人ほどの方が明日の試合に参加すると聞いておりますが,やはりその笑顔のお陰だと思います。また津幡からも毎年,7時間もかけて車で来ていただいておりました,そういうことで今日まで交流が続いていることにも感謝申し上げます。
テニスはラケットスポーツであります。このラケットスポーツというのは非常に健康にいいというデータがありまして,みなさんにもぜひ続けて欲しいと思っております。今日は車いすのみなさんも来ていただいておりますが,TTCでも一緒にやろうということを続けて参りました。TTCには雨の日も風の日も,1年のうち363日,車いすの方が来ておられます。そこで一緒にやっていることでお互いに励まされているところです。
今日は津幡町が40年を超え,50年,60年と続いていく中でどうやって発展していくのかということをお話し申し上げたい。
私たちは毎年,海外からテニスの指導者を招いて,スポーツ科学セミナーというのをやっております。九州地区から初めて日本中を回るわけですが,私ばかりではなく講師の印象に強く残るのも北信越地区なのです。それは参加者のみなさんが熱心であって,心の暖かさというものを感じるということを,講師の方たちがいつも話しておられます。そういうわけで,津幡とは限りませんが,北信越のどこかにTTCつまりテニストレーニングセンターを作ったらどうでしょうか,ということを申し上げたい。それはみなさんが純真にテニスを大切にされ, ボランティアで大会を運営する心があるからです。
北信越にトレーニングセンターを作ることをご提案申しましたが,トレーニングセンターは何をするところなのでしょうか。実をいうと,私がトレーニングセンターと始めたとき,何をしたらよいかまったくわからなかったのです。そこで, TTCのマークにその役割を示すことにしました。この4つのボールがすべきことを象徴しています。これらのことを一つ一つ実現していくのがトレーニングセンターの役割であり,目標であろうかと思います。
テニス・フォー・オール
有名な三銃士という物語にはワン・フォー・オール,オール・フォー・ワン(一人がみんなのために,みんなが一人のために)という言葉が出てきます。ここに掲げたのは,「テニスをみんなの幸せのために」ということになるでしょうか。TTCの近所に歩けないお年寄りがいました。その方がテニスを始めて,いまでは公園を散歩するまでになりました。TTCは多様なクラスを持っていて,初めての方でも楽しくテニスができるスターティングプログラムがあることがそういうことを可能にしたのです。
また,車いすテニスの方も分け隔てなくテニスをしようというのもTTCのポリシィの一つです。国枝選手は大学時代,授業に遅れないように朝6時からTTCにやってきました。それは就職してからも続きました。そして,いよいよ国枝選手がオリンピック選手に選ばれて,抱負を聞かれたとき「お父さん,お母さん。僕はこんな身体になったことを悔いていません。障害者になったお陰で僕はここにいます。お父さん,お母さん,ありがとうございました」。実は,国枝選手のお父さんはご子息が事故のために傷害を負ったあと,国枝選手のことを見ていられなかったそうです。このスピーチを聞いたお父さんは,私の横で身体の震えを止めることができず,座っていたパイプ椅子の音が床に響き,お父さんは泣いておられました。それを眼にしたとき,やはりスポーツというのはすごい力を持っているんだなと思いました。
国枝選手がプロになろうというとき,私に相談にきました。彼は私が反対することを知っていたのですが,あえて,困難にチャレンジしたい,こういう身体でもテニスができるということを伝えたい,はっきりと言いました。このように自分の目標を持って,それをしっかりと人に伝えることが大切なことなのです。
選手の育成
TTCでは選手を育成するためのたくさんの大会を行っています。全国選抜ジュニア選手権大会,手話国際テニス選手権,そして車いすテニスのためのマスターズも行っています。選手たちはそれぞれのレベルに応じた大会を経て成長していきます。ジュニア選手のためには「Reach Your Max!」として,10,000時間を超えるプログラムも用意されています。
試合を通じてもっとも学んで欲しいということは何でしょうか。それは「マナー」です。テニスは何から始まるでしょうか。相手がコートで待っている。そこへ玉を出してあげる。これをサービスといいます。そういった点ではダブルフォールトは一番いけません。ダブルフォールトすると大変失礼であるということで相手に1点を差し上げる。まず,相手がどうにかしてとれるところに球を打つということがサービスなのです。だからテニスというのは相手のところにボールを返してあげるというのが一番大事な心構えです。世界の選手たちはサーブを一生懸命に練習します。今日お越しになっている斉藤プロも,ぜひともダブルフォールトをしないようにお願いいたします。これがテニスマナーのうち一番最初に行うべきことだからです。
そして「サービスの基本」とここに写されていますが,それを誰が実行するか。それは理事長である私,そしてスタッフ全員が暗唱する時間を作る。これを毎日毎日続けていくことが大事なのです。
指導者の育成
間もなくオリンピックがありますが,日本はトレーニングセンターということでは少し後れをとっているのではないでしょうか。トレーニングセンターの役割の一つに各種の大会や模様しものを行うことがあります。スポーツ科学セミナーもその一つですが,そのなかからいろいろな交流が生まれてきます。いまや道具は飛躍的に進歩し,テニスは日々進化していきます。当然,指導者たちも専門的なことを勉強していく必要があります。そして,世界的な規模での交流と情報交換を行わなくてはなりません。
私と一緒にここに写っているのはリチャードショーンボーンというドイツのコーチです。TTCのスポーツ科学セミナーにも来ていただき,長年にわたって交流を続けています。彼は食べるのが好き,山が好きということで私と気が合うのですね。そうすると,彼の高い見識や,世界のテニスの動向などを教えてもらったりします。トレーニングセンターはそういう交流の場を生み出す場でもあるのです。
ここにかいた Back to the Basic(前進するときには基本に返れ)は,日本だけでなくインターナショナルな言葉です。そして右にかいたのは,ヒューイットのコーチをしていたクリス・チャケルが残していってくれた言葉で,「学ぶことを止めとたんに2番目に走ることになってしまうよ」というものです。いまTTCの若いコーチがオーストラリアで学んでいますが,それを引き受けてくれたのもクリスです。
ここで,外国語ができることが絶対に必要だということを申し伝えておきます。世界規模で交流氏情報交換するとなれば,どうしても英語の習得は必要ですし,できれば4カ国語くらいは話せるようになって欲しい。いまや日本国内だけの情報交換では追いつけない時代になっていることを忘れないで欲しいのです。
スポーツ医科学からのサポート
簡単な例では,「関節がどちらに動くか知っている」ということは大事なことですね。動かない方に曲げようとすれば怪我をしてしまう。また,練習をするにしても,なぜそれをすることが必要なことなのかを説明できなければなりません。それは合理性といってもいいでしょう。そして,合理的な身体の動きは美しい。それは調和がとれているからです。お茶を出す動作にしても,腰骨を立てて,適度な間を持ってそれを行う。それは相手にとっても自分にとっても気持ちがいい。スポーツプログラムは,そういうことを踏まえて組まれる必要があるでしょう。トレーニングプログラムを作るときには,野球やサッカーなどと協力して開発しています。
最後に
これまでいくつかのことを述べてきましたが,トレーニングセンターを一言でいえば「みなさんの気持ちが集まる所」です。強くなりたいという気持ち,育てたいという気持ち,誰かの役に立ちたいという気持ち,いろいろなことを学びたいという気持ち。それらが集まって,テニス・フォー・オールや選手や指導者の育成,スポーツ科学の吸収といった具体的な目標に向かって歩いている所といえばいいでしょうか。
間もなくオリンピックが始まりますが,トレーニングセンターということでは日本はやや遅れをとっているように思われます。ぜひ,この北信越にトレーニングセンターを作って,テニスの素晴らしさを広く伝えて欲しいと願っています。
少ない時間の中,十分な話もできなかったのですが,みなさん,ご静聴ありがとうございました。
--- どうもありがとうございました。単にテニスを教えることや上達させることだけではなく,人を作るために活動なさっているということがよくわかりました。
車いすテニスとジュニアテニス --- 吉田和子氏 ---
続いて一際大きな拍手に迎えられて吉田和子さん(旧姓沢松)が登壇する。吉田和子さんは落ち着いたよく通る声で,3つの質問に答えてくれた。
--- 今日は、せっかくの機会ですので、吉田和子さまにいくつかの質
問をさせて頂こうと思います。会場の皆様も質問があると思いますが、
時間の都合もありますので、当協会「厳選」の3つの質問に絞らせていただきたいと思います。
--- 最初の質問は、ニューミックステニスについてです。毎年、TTCでは、ヴァンヴェールという団体戦の楽しい大会を開催されており、津幡町からも参加させてもらっています。そのヴァンヴェールで、今年、和子さまが車椅子テニスの選手とペアを組み、ニューミックスペアとして、一般のペアと対戦されていました。ニューミックステニスは、車いすテニスをする人にとって、ゲームの機会が増えるだけでなく、健常者と車いすプレーヤーが一緒にテニスを楽しめる点で画期的と感じました。ニューミックスの面白さと大会を開催する場合の注意点などを教えてください。
吉田和子「車いすテニスというと特別なものだとお感じになると思いますが,実はみなさんがやっているテニスと同じなのです。コートもネットもボールも同じですし,ルールも同じです。ただ1つ違うのは,車いすの方には2バウンドで打つことが許されていることです。だから,健常者の方も一緒にテニスを楽しむことはごく普通のことなんです。TTCには毎日のように車いすテニスの方が来ておられますから,ニューミックスを楽しんだり,健常者の方たちと対戦したりする機会はたくさんありました。私,いまはもう前に走ることが苦手になりましたから,短い球は車いすの方にお願いしたりしています。それでも,健常者だけが出場していた大会に出場しようという発想はありませんでした。それがあるとき,私たちもニューミックスの団体としてヴァンヴェールに出場しようと思い立ったんです。それまで思いつかなかったことが不思議に思われるくらい,それは自然なことでした。もちろん,私もとても楽しくテニスさせてもらいました」
--- 次の質問は、会場にもたくさん参加しているジュニアの参考
になればと用意したものです。和子さまは、ジュニア時代から、国内はもちろん、オレンジボウル優勝、全仏、ウィンブルドンジュニア優勝など輝かしい戦績を残されています。印象に残る試合やエピソード、また、どのような気持ちで試合に臨まれていたかをお聞かせください。
吉田和子「私が若い頃はいまのようにたくさんの試合がある訳ではありませんでした。関東ジュニアと関西ジュニアがあって,次は全日本ジュニアという時代でした。一番印象に残るのは,私が12歳で始めて試合に出場したときのことですね。その大会の準々決勝はとても長い試合になりました。もう暑くて,これ以上戦えないと思うほどでした。そのとき,私の首のところを涼しい風が通り抜けていったのです。おそらく一瞬のことだったのでしょう。その温度とか感触などをいまでもはっきりと覚えています。そのとき,辛いのは自分だけではない,相手もきっと暑くて辛いはずだと思い直し,何とかその試合に勝つことができました。決勝では姉の順子にやられてしまったのですけれど,あの勝利が次の全日本出場につながりました。そのことが自分のテニスの第一歩となったのですね,そういう意味で一番印象に残っています。」
---3つめの質問もジュニア向けですが、もしかするとシニアの興味本位な要素が混じっている気もします。和子さまは、1975年に引退されていますが、その年は全英ダブルスの優勝だけではなく、全豪、全仏、全米のシングルスでベスト8という、錦織も凌駕する華々しい戦績を残されてます。なぜ、そのような絶頂期ともいうべき時に引退を決意されたのですか。そのときの心境をお聞かせください。
吉田和子「男子では錦織圭選手,女子では伊達公子選手,この二人は私とはまったく実力が違います。まったく比較できるようなレベルではありません。そのことを最初に申し上げておきます。さて,私が世界のツアーを回っていた頃は,いまのように簡単にアメリカやヨーロッパに行ったり来たりできる状況ではありませんでした。一度海外に出たら短くても1ヶ月,長いときには3ヶ月も4ヶ月も日本に戻ることはできません。その中で勝ったり負けたり。自分で汽車に乗り,ホテルを手配して転戦していく。そういう生活はもういいと思ったのでしょう。ウインブルドンに優勝する前の年に,私を育ててくれた父に,来年を限りに引退するとはっきりと申しました。そしてその年の冬は,できる限りの力を尽くして練習しました。自分の苦手なことを克服することも含めてです。それがウインブルドンの優勝につながったわけです。しかし,引退するという決意はそれでもみじんも揺るぎませんでした。ですから,引退して寂しいとか,残念だったとか思ったことはありません。」
もしかすると結婚が理由と想像されていたかもしれれませんが、結婚は引退した後のことです(笑)
--- 期待した内容と少し違いましたが真相が良く分かりました。ありがとうございました。
ここで名残惜しくも講演会は幕を下ろした。講演会の後,いまでもテニスをなさいますか,という質問には「気のあった人たちと和気藹々とテニスをすることはありますし,それはいまでも大好きです。でも,勝つことが求められるようなところに戻りたいとは思いません」とお答えいただいた。いつも気さくお話しいただく吉田和子さんの爽やかな笑顔は,今年の猛暑を和らげる涼しい風となったようである。