津幡町テニス協会

2018/04/08掲載

30周年記念行事(2008/09/15 シグナス)

吉田記念テニス研修センター
吉田夫妻の「テニスメッセージ」

──津幡町テニス協会創立30周年記念行事にお越しいただき,ありがとうございます。本日は素晴らしいお客様をお招きし,楽しいひとときを過ごしたいと存じます。登壇いただくパネラーをご紹介いたしましょう。吉田記念テニス研修センター理事長の吉田宗弘さんです(登壇)。旧姓で沢松和子さんといえばテニスをなさる方はみなさんご存じですね,吉田和子さんです(登壇)。そして,今年,創立30周年を迎えた津幡町テニス協会長の前田猛夫でございます。私は進行役をさせていただく阿蘇と申します。
 最初に,パネラーのみなさんをご紹介するとともに,みなさんのテニスに対する思いなど,一言ずついただきます。どうしても旧姓がでてしまいますが,沢松和子さんは1967年から1975年までの8年間,国内で負けなしの192連勝という記録を達成され, 1975年には,ウインブルドン女子ダブルス優勝という快挙を成し遂げ,日本人初の4大大会タイトルを獲得なさいました。のみならず,日本人女性初のプロテニスプレイヤーとなり,井上悦子選手,伊達公子選手などの後進にプロの道を開きました。
 世界一といえば,私どもには大変に遠い道のりだと思うのですが,それを支えたのは何だったのでしょうか。

吉田和子 みなさま,おはようございます。吉田です。私,いつもウインブルドンは「ラッキーにも優勝できた」と申し上げています。その当時はいまのような情報はなくて,ウインブルドンという言葉さえ聞いたことがありませんでした。目の前にジュニアの大会があり,その全国大会がある。それに勝つと次の段階のジュニアの大会がある。とにかく,ジュニアの大会と全日本テニス選手権しか知らなかったのです。
 私がテニスを始めるとき,父に「選手になりたいのか,レクリエーションとしてやりたいのか」と聞かれました。そして,もし選手になりたいのならこれから大学を出るまで12年間は絶対にテニスを辞めるといわないこと。それが約束できるならサポートもするし指導もしようといわれました。これが私のテニスの原点です。そのために辞めようと考えたことがありませんでした。選手でやっていこうと決心してからはジュニアの大会,関西の大会,全日本の大会と,目の前にある大会を一つ一つ乗り越えていった結果として,そこにウインブルドンがあったということだったのです。

パネラーの沢松和子さん