2018/04/08掲載
サッカーワールドカップと日韓交流
日韓両国の親善と友好を深めることを目的とする第3回日韓スポーツ交流事業は、1999年6月24日から30日まで、日本のスポーツレクリエーション大会に相当する国民生活体育大会への参加という形で ソウル市を中心に行われました。日本選手団は今年と来年のスボレク開催県の山形と石川から、総勢108人が参加しました。参加競技数8のうち陸上、テニス、バドミントン計53名が石川県から派遣されました。
私たちにとって幸運だったのは、テニス競技の選手団14名のうち6名が津幡町の選手で、それ以外の選手たちも気心の知れたメンバーばかりで、日本選手団同士のコミュニケーションに苦労することがなかったことです。そのうえこの選手団は「乗りの良さ」に関しては誰一人として人に引けを取りません。そのことがこの旅を何倍も楽しいものにしてくれました。
小松空港のロビーで結団式を済ませ、最初の宿泊先である東京のサンシャインホテルに向かう飛行機を待ちながらの昼食、テニス選手団の横井正監督は「ビールのジョッキを返したら一杯になって返ってきた」と早くも上機嫌です。サンシャインホテルでは日本選手団お揃いのウインドブレーカーが配られました。右胸に日の丸、背中にJAPANの朱文字が染め抜かれたウインドブレーカーを着ると、何やら晴れがましいような気分です。
夕方に開かれた送迎会では「友人として知り合えるような交流をしてほしい」という挨拶を受けました。実をいうと、私たち一行はそれまで旅の目的について十分な理解があったとはいえませんでした。私たちの関心は、テニスとそして大韓民国という国のことばかりだったといっていいでしょう。それがこの言葉によって「スポーツを通じて日本と韓国の友好を深める」という本来の目的を思い出したのでした。大丈夫、任せなさい。それなら津幡町選手団がテニスよりも得意とするところです。
翌24日はいよいよ成田から韓国は金浦空港に飛ぶ日です。成田空港ではさっそく韓国語の本を購入しました。そしてもしかしたら歌うこともあるかもしれないと韓国の歌のテープもあわせて購入しました。しかし誰もラジカセやCDを持っていないのですから、どこか抜けたところがあるような気がしないでもありません。
金浦空港で私たちは一人の青年と知り合います。ボランティアで通訳として最後の日まで私たちに同行してくれることになる朴宰成(パクゼソン)君です。バスを降りるときに足を踏み外して以来、足が短いのドジだのと日本の誇るアズマたち(韓国語のおばさんの意味)の痛烈な攻撃にユーモアを交えて切り返す朴君は、日本括の巧みさとともに人間の大きさも私たちに示してくれることになるのでした。
ソウルでは Olympic Parktel という立派なホテルで歓迎会が催されました。そこでは韓国の民族芸能に出会いました。名前を知らないのが残念ですが、5人の楽団による太鼓と銅鍵の演奏です。韓国ではとても有名な楽隊だそうですが、それはそれは素晴らしいものでした。さして大きくもない太鼓と鋼錦は、強烈なテクニックで聴衆を魅了し尽くしてしまうようでした。最後の出し物は、踊りながら、帽子に付けた1メートルはどのリボンを操りながらの演奏でした。感化されやすい私たちはさっそく真似をしてみましたが、彼らの優雅さと強靭さには到底及ぶべくもありません。筆舌に尽くしがたいとはこのことでしょう。叶うことならばもう一度あの素晴らしい演奏を聴きたいと思います。
翌日、テニス選手団はソウルから競技会場がある蔚山(うるさん。有名な釜山から車で約1時間ほどのところにある都市)に行くことになっています。蔚山まで移動するのはテニス選手団の14名だけだったのでテニス選手韓のことを「生活体育大會交流團蔚山隊」と名付けることにしました。この名称は「うるさ方」の横井監督にピッタリでとても気に 入っています。津幡町選手団は「蔚山隊津幡Team」というわけです。日本ではあまり見慣れない文字を使ったのは、韓国では「TENNIS大會」のように正字体を使うからです。正字体はすでにそれを忘れてしまいつつある私たちに美しい印象を与えてくれました。
TENNISと書くのはカタカナがないせいでしょうか。日本人と韓国人とが共通に読める文字は漢字とアルファベットだけだったのです。よく考えると、古くから文化的な交流が深いとなり同士の国のコミュニケーションに、邁か遠いヨーロッパやアメリカの文字を使うのはおかしなことです。まさに私たちが驚いたのは「韓国の言葉がまったくわからない」という当たり前のことでした。私たち日本人は子供でもワン・ツー・スリーを知っています。日本のことはジャパンといいます。しかし、韓国静で1、2、3は何というのでしょう。韓国の人たちは日本人を何と呼ぶのでしょう。同じ顔をした人たちの青葉がチンプンカンプンであるということは、むしろ不思議な感じがしたものでした。私たちは愚かにも、韓国の人たちは日本をジャパンと呼んでいるという思いこみすらあったような気がします。私たちは今更ながら「交流は互いに知り合うことから始まる」という当たり前のことに気づきました。
次の日はいよいよテニス大会です。雨の心配はないようでしたがそれほど暑い日ではなく、絶好のテニス日和です。
私たちが向かったのは、2002年のサッカーワールドカップの試合会場に隣接する競技場でした。開会式は午後からなのでさっそく練習を始めます。
そこで韓国の選手たちとテニスをする機会に恵まれたのは望外の喜びでした。練習のあと、ただ一つ知っている韓国の言葉「カムサハムニダ(ありがとう)」といって握手をしました。ちょっと怖い顔をしたその選手は、最初、私たちが言おうとしていることがよくわからないようでした。一瞬の後「そうか、ありがとうといっているのか、韓国請じやないか」。そのときの笑顔を私はずっと忘れることはないでしょう。私たちの町のテニスと人生の先輩である故問谷武洋氏の「テニスラケットが1本あれば世界中の誰とでも友だちになれる」という言葉をしみじみと実感したものでした。もう一度時間ができて練習マッチをしようといったとき、その選手が私を指名してくれたとき、なぜか誇らしく感じたものでした。
私たちの参加するテニス大会は、日本の全日本都市対抗テニス選手権に相当するものです。ソウルをはじめとする16の都市が23種目を競います。そんなに種目が多いのは「25歳以上男子」から「60歳以上女子」まで、さらに「ミックスダブルス」、「親子ダブルス」などもあるからです。各種目とも優勝すると100点、2300点満点で覇を競います。
種目ごとに3チームから4チームの予選リーグがあって、上位2チームが決勝トーナメントに進みます。したがってその試合数は膨大で、1日半の日程では消化するのが大変です。その予選リーグは私たちが初めて出会う方式で試合時間がすべて30分に決められているのでした。すべての試合はタイムテーブルによってたとえば第1試合が9:00〜9:30なら次の試合は9:40〜10:10と完全に決まっています。試合の間の10分間に次の選手がコートに入って練習するわけです。時間が来たらホイッスルと同時にすべての試合が始まり、30分経過の合図と同時に、たとえボールが空中に浮いていても試合が終了します。30分以内で6ゲームの差がつくとその場で終了、さしずめコールドゲームといったところです。予選リーグの順位は行った就合の得失ゲーム差の合計で決まるようです。
なんといってもその方式が魅力的なのは、決まった時間内に決まった試合数が消化できるという点です。たとえば10面のコートで100試合を消化しようとするとき、試合開始が9:00であればその390分後の15:40にはすべての試合が一斉に終了するのです。この方式が効果を発揮するのは予選リーグのような場合でしょう。試合の合間の休憩時間もきちんととることができ、自分の試合が何時何分から始まるかを常に知っていることができますから無用な放送の必要もありません。
さて、これから書くことが韓国のテニスの悪口であるとか、日本が韓国に比べて優っているなどといいたい訳ではないことを、まず断っておきます。韓国のテニス事情は日本とだいぶ違いますが、そこから学ぶことが実に多かったのです。
テニスボールは明らかに柔らかいものですし、クレーコートに引かれたラインチョークはかなりいい加減に曲がっています。よく屋外駐車場にあるようなチョークを引くために張ってあるような紐が、大会会場にも残っていてそれに足を取られることさえあります。ネットにはセンターベルトがなかったりします。ボールを拾うために隣のインプレーのコートに入ることが、当然のごとく行われているのには驚いてしまいました。観戦している人はコート内の金網のところに座っていますし、その人たちが大声でアウトなどのジャッジをしても平気です。大抵の選手は明らかなフットフォールトをしていますが、それもラインを踏んだかどうかなどではなく、まあ50センチはコートに踏み出していたりします。
それはもしかしたら国際的には通用しないかもしれませんが、韓国の人たちはそれで十分テニスが楽しいようですし、また、そのレベルも相当に高いように見受けました。もっとも、私たちが参加した大会はおそらく韓国のアマチュアのトップレベルの大会だったのでしょう。元デビスカップ選手も参加していましたし、なにより、これが各地のテニス協会の名誉を賭けた戦いだったからです。日本のトップレベルと比べてどうということはできませんが、とくに若い選手たちは普段私たちが目にすることがないような素晴らしいプレーを披蕗してくれました。
つい十数年前まで、石川県の県体は駐車場にラインを引いて行っていたことを覚えている方も多いでしょう。韓国は日本と違うといって驚くほどのことではありません。いまの私たちはつい、コートが悪いだのボールが古いだのと文句をいいますが、それでテニスが楽しくなかったり上手になれないということはないのだ、ということを改めて再認識したのでした。
私たちが韓国について誇るとき、まず一番多い話題は「韓国の食」のすばらしさではないでしょうか。ほかの競技の選手団のことは知りませんが、私たち蔚山隊はその点に関してとても恵まれていたといえるでしょう。焼き肉、韓国料理バイキング、しゃぶしゃぶと続いた蔚山での食事は私たちを十分に満足させてくれました。焼き肉は直接たれをつけて食べるのではなく、ちょっと唐辛子の利いたたれをまぶした野菜にくるんでいただきます。野菜は無制限でおかわりできるので、焼き肉というより野菜料理を食べたような、とてもヘルシーな感じがしました。
当然のごとくビールがすすみますが、彼の国ではビールは個人負担です。それが町のレストランでも立派なホテルでフランス料理を食べたときもまったく同じシステムで、頼んだらその場でビールの代金1本4000ウォンなりを支払います。伝票を付けることもないようですから、ビールとお金をその場で交換しないと、後でトラブルになることもあるようです。トラブルといえば、唐辛子をふんだんに使う料理に舌鼓を打っていては“出口のトラブル”も心配なところですが、幸いにして紀憂に終り、ほっとした人もいたようです。
テニス会場では蔚山市テニス協会の心尽しのお弁当が用意されていて、本当に感激でした。印象に残っているものだけをあげても、やみつきになってしまったキムチののり巻き、ちぢみ(ニラ入りお好み焼き)があれば満足という人、珍味の鮫の軟骨を2パックも欲張る人、鯛とヒラメのお刺身は大きな器に盛られていてヒラメの縁側だけでも食べきれないくらいです。天ぶらとお寿司は日本人の好みに合わせてくれたのかもしれません。旬を迎えたスイカのみずみずしさ。エビを一つひとつ剥いてもらって韓国女性の優しさに感激した人もいました。余談ですが、韓国の男性はめったに厨房に入らないそうで、その話を聞いた男性陣は我が意を得たとばかり「いまこそ日本は韓国の文化を見習おう」といって男性同士、国境を越えて手を握りあったものでした。
蔚山での歓迎会の後、テニス協会の方たちが屋台に誘ってくれました。両国の人数はちょうど同じくらいだったので韓国の方々の提案で、イルポン・ハングル・イルポン・ハングル・日本・韓国・日本・ 韓国‥‥と並びます。屋台というより簡易テントの海の家といったところで、畳も敷いてあります。用意してくれたのは「ちげ鍋」という料理で、はたはた鍋のビリ辛風味といったらいいでしょうか。私たちは濁り酒をいただきながら、明日のエキジビションマッチの約束などをして楽しい時を過ごしました。そこで聞いた話を紹介します。
「私の母は小さいときから日本人のところで働いていて、学校へ行ったことがありませんでした。後年、母が君が代を歌ったことがあります。まわりの韓国の人から冷たい目で見られました。韓国の人たちの君が代に対する思いは複雑なものがあります。しかし私は君が代が好きです。それは私の母が好きだった歌、母が知っているただ一つの歌だったからです。」
現在の日本人、とくに若い人たちのうちで、日本が韓国を統治し、人々に韓国の言葉を使うことを禁じた36年間(日韓併合条約から第2次世界大戦終了まで)があったとこを知っている人はどれだけいる
でしょうか。韓国のサッカーというと、私たちは単にアジア予選における日本のライバルという印象しかありません。しかし韓国の人たちが日本に対して抱く感情はまた別のものがあります。今回の日韓スポーツ交流のきっかけとなったサッカーの日韓共同開催も、日本人とはまったく違った捉え方をしているのでしょう。ここではいま話題となっている「君が代・日の丸」の問題について述べるのは適当ではないでしょう。しかし、少なくとも私たちは、近隣の国々に対して私たちが行ってきたことを正しく理解した上でその是非を判断する必要があるのではないでしょうか。
翌日、蔚山での最後の夜。私たちはホテルの支配人に案内されて日本人向けのカラオケボックスに行きました。その日は休みだそうで、格安の値段で1時間だけ借りることができたのです。案内された部屋はとても立派なもので、3人掛けのソファーが5つもあって、部屋の中にはトイレも完備されています。日本人用の歌もたくさん用意されていました。私たちは大はしゃぎで楽しんだことはいうまでもありません。帰るとき、韓国のカラオケボックスは立派ですね、というと案内してくれたホテルの支配人ほ「普段は別の目的に使います。日本人が歌っていると女性がその横にすわり、気が合うと別の場所に行くというための部屋です」といいました。これには何ともやりきれないような恥ずかしい思いをしました。そういうことを聞いてはいましたが、身近に感じたことは初めてでした。いつか私たちの子供がアジアの国々と交流するとき、絶対にこんな思いをさせたくないものです。
最終日には韓国の誇る百済文化ゆかりの地を見学しました。その昼休み、蔚山隊はバスガイドさんたちに「アリラン」の歌を習いたいと申し出ました。最初はだめだめといっていましたが、私たちの気持が通じたのでしょうか、やがて興が乗ってきて、30分間ほどの歌謡耕座は大成功になりました。
その夜の送迎パーティもやがて終わろうとするときです。突然にアリランを歌おうと言い出す人がいました。こんな正式なパーティ会場でそんなことをしようと考えつく人は津幡でも一人しかいません(これは内緒)。それがどんなに突拍子もないことでも誰もそれを止めることはできません。というより、あっという間に本気になってしまうのが蔚山隊の特徴といってもいいでしょう。韓国テニス協会長の雀在換氏も巻き込んでの合唱が始まりました。隊長の横井さんはすでにご存じの歌ですし、副隊長の江尻さんはコーラスの名手でもあります。蔚山隊全員が歌っていたので、残念ながらその記念写真を撮うることができませんでした。しかしそれはみんなの胸の中に忘れられない記念として深く刻み込まれています。
さて、私たちは韓国のある町とテニス兄弟町契約をしよう考えています。津幡町テニス協会が主催する北陸三馬市町村対抗「YOU遊オープン大会」に韓国の町が象如してくれたら、そして次の年は私たちが韓国のテニス大会に参加することができたら、どんなにか楽しいでしょう。そしてそれは夢ではないのです。津幡町テニス協会には「見続けた夢は必ず実現する」という問谷精神が生き続けているからです。私たちはやがて韓国静の勉熟考始め、そのためのプロジェクトを頼ることでしょう。その母胎となるテニスサークルは.AATC(アズマ・アジョシ・テニスサークル(おじちゃん・おばちゃんの意味)と名付けようと思います。私たちの日韓交流はいま始まろうとしています.アリランの歌はその出発点というべきものでした。
今回の旅は実に多くの方の好意に支えられていたことを今更のように思います。通訳をしてくれた朴さんや徐允貞さん、おいしい水だといってご自分の家からわざわざ持ってきてくれたガイドの李春子さん、ガイドの仕事が終っても心配たからといって自分の車で追いかけてきてくれた李恵著さん。試合には出ないけれど大会の運営に囁わってくれた方々、すべてはボランティアでした。カラオケではムード派で運営Team長の趨徳根さん、おごってくれた青空の下で飲むビールは本当においしかったよ。韓国に行くと聞いてわざわざ会いに来てくれた教え子もいました。日本に帰ってからお便りや電話をいただいた方もいます。韓国のテニス協会の役員の方たちは、この秋、日本に来られます。またお会いできるでしょうか。ほんの一瞬のふれあいが私たちの心をどれだけ豊かにしてくれたか、はかり知ることができません。
そのような機会を作ってくれた日本体育協会と韓国生活体育協議会の関係者の皆様に、韓国テニス協会と蔚山市テニス協会の皆様に、そしてずっと行動をともにしてくれた通訳の朴さんに、心から感謝の気持ちを伝えたいと思います。
ありがとう、ありがとう朴さん、
ありがとうみんな、カムサハムニダ!